農作物害獣被害〜伝統的狩猟文化から何を学ぶのか〜

秋田県阿仁町、打当と呼ばれる場所にマタギの里がある。
マタギとは、近世から近代にかけて東北を中心として活動した狩猟集団の一つだ。
日光派と高野派という二つに別れている場合もある。

現在、この狩人達の文化を見直して、野生獣被害から地域住民を守る試みがなされている。


2006年度の野生獣被害は、「ブナの実などの凶作」も相俟って被害件数が多いと言われた2004年度よりもさらに多くなった。
捕獲された頭数は既に4000頭を超えている。 (最終的な統計は4700頭だったと思う)
ただ、野生獣被害と云っても、その原因にはさまざまなものがある。
最も大きいものは、昨今の中山間地域の廃村化などが要因としてあげられるだろうか。
中山間地域での廃村化、これは高齢化がその主な原因となっている。村民、町民の50%以上が高齢者という村、町は珍しくない光景となった。その為、現在都心部に移住する人が増加している。
このような移住や寿命などの自然消滅によって、村が放棄されさらにそれに連動して村が使っていた「里山」も使われなくなった。
里山とは、地域の住民が生活の場で利用していた森林のことを指す。山菜採り、或いは焼き畑、昔などは薪炭共有林や茅葺き屋根に使うための茅の採取、毎日馬などに食べさせるための草などの採取の為に村周辺の山々を日常的に使っていた。
この生業に結びついた山のことを「里山」と呼んでいる。
少しばかり話が脱線してしまうと、現在行政がいう里山造りなどの言葉は、里山としとの機能をすでに果たしていないと云って良い。ハイキングコースとして整備された山を里山とは呼べないだろう。
それは、人が生活していくための一部として用いられていた山ではないからだ。

さて、今日まで山には様々な人による圧力が加えられていた。それは、里山と云う形の人の手であったり、或いは狩猟による圧力であった。
狩猟と聞くと、何か別世界の話か、歴史教科書の中の昔の世界と云った印象があるだろうが、実はこれは間違っている。狩猟は現在でも行われていて、さらに戦後も狩猟によって生計を立てていた人々が存在していた。これらの人々が山に手を加えていてくれたおかげで、都心部(街)に野生獣が出没する確立は格段に少なかったのである。
だが、高度経済成長期の自然環境の破壊などで保護運動の機運が高まると、これらの人々が糾弾されることとなった。
さらに、地方での市場化が進みサラリーマンなどの職種が台頭し始めると、農業、林業などの第一次産業が衰退し、山間部では生業が成り立たなくなって離村する人が相次ぐこととなる。

今日の野生獣被害の真相は、大まかに述べるのなら以上の様な背景があるだろう。
過剰保護による過剰増殖、廃村化、これに近年の人口減少などさらに複数の要因が折り重なって、日本の森林地帯は野生動物のパラダイスと変貌したのである。

そして、今日までの過剰保護の成果が皮肉にも過剰捕獲という現状を招いてしまっている。
どんなに、可愛い動物であっても、それが生活への被害、さらには人的被害まで出てしまっては無視できないだろう。

かつて、狩人は「森が野生動物を養える許容量」を知っていた。それは、現在の狩人も同じで、森そのものが養える野生動物の数を体験的に知っている。
山に、野生動物が食べられる食糧がないとはメディアでは良く言われているが、そもそも野生動物そのものの数が増大してしまって、森全体の許容量をオーバーしてしまっているのが現状だろう。

増えすぎた動物たちが里に下り、今度はそこで農作物を荒し、人に危害を加え忌み嫌われる存在になる。

こんな事を、今後も続けていくのだろうか。

この、野生動物との上手な付き合い方の模索が現在行われ始めている。
その手段の一つとして上げられるのが、タイトルで述べた狩猟なのだ。
かつての伝統的な狩猟体系の中から、ヒントをくみ取り、それを現代で実践出来る形に置き換えをして、導入していく。
欧米型の保護志向をただ単に流用するのではなく、日本の体質にあった保護や狩猟の在り方の模索、これが現在緊急の問題であり、早急に対処するべき課題なのである。

                        (気が向けば続きます)