足跡散策〜エコロジーの隙間から〜

今夏、秋田の実家に帰る機会が在った。
実家で、或るおばあさんと一緒に黄昏時の田畑地帯を歩いた。堤防に抜ける道を緩やかに辿っていく。隣を歩くおばあさんが語る言葉に耳を傾けると、今私が見る風景とおばあさんが見る風景とは相当違うことに気付かされる。周りの風景を見ながら、おばあさんの記憶の中に思いを馳せた。
今では、すっかり草が生い茂った堤防がおばあさんが子どもの頃は草が綺麗に刈り取られていたと云う。刈り取られた草は、家で飼っている馬のエサにされていた。だから、草が生い茂る場所は殆ど無かったのだと云う。
家では、豚、馬、猫、鶏を飼っていた。猫は、ネズミを捕ると必ず主人の所に見せに来て、それが嫌でたまらなかった。
豚は、家の食卓から出た残飯を処理するのに重宝された。馬は、農作業の大切な労働力になった。家からでる人糞は肥料に使われた。わざわざ、農業を行っていない人の家に回収しにいくこともあったそうだ。今では嫌がられるが、それが普通だったのだという。
客人が家に来た時には、鶏が殺された。客人に振る舞われる鶏は、最高の贅沢品であった。今でこそ、スーパーで気軽に買える卵は、卵買いという職業が成り立つ程の貴重品だった。
戦争が始まる頃、ウサギを家で飼い始めた。供出の為にウサギを飼って、ウサギの皮を専門に買いに来る人がいたと云う。子どもは、ウサギのエサを遊びをしながら採取する事が日課だった。
農繁期には学校が休みになって家仕事の手伝いに子どもながら精を出した。
殆どのものが、集落の中で生産されて消費され、「まわって」いた。家から出るゴミは殆どなかった。

こういう話を後何年聞けるのだろうと、ふと思うことがある。
それを考えると恐ろしくなることがある。
たった50年、されど50年その合間に風景は一変したのだろう。草を食べる動物が家から居なくなった。空き地には伸び放題に草が生え、堤防も雑草の戦場と化している。
かつては、家畜のエサや肥料になった残飯は今では燃えるゴミとして資金をかけて処理される。
エコロジーと云う言葉がいつから叫ばれたのか、私は分からない。前に戻ると云う訳ではない。でも、私たちが知ろうと思えば知る事のできるすぐそこに、ほんの少しの距離の中にそのヒントが眠っている。

そう思いふける事がある。