一連の高校の「世界史」履修問題〜成績捏造の危険性と認識に関して〜

一連の報道によると、必修科目である世界史を受けられず、高校を卒業できないという事態が発生してるらしい。
受験へのモチベーションを上げていかなければならないこの時期に、新たに70コマもの授業を受講しなければならないというのは、むちゃくちゃな話だ。当事者側の受験生はたまったものじゃないだろうと思う。
しかも、授業を受けるだで単位が貰えるわけではない。テストも当然しなければならなくなるわけだから、事は深刻だ。冬休みでも削らないと、授業時間を満たせないのではないかと思えてならない。



このことで今日、ちょっと友達とチャットで会話をしていたら、「俺の学校は××(ある教科)が授業受けていないのに成績が付いていた」という話を聞いて驚いた。どうやら話を聞く限りではある特定の教科を、教科書を買っているにもかかわらず一度も「受けた記憶がない」とのことだ。当時の時間割表にも、その授業の時限は記載されていないという。
だが、成績表にはきっちりと成績がついていたらしい。らしいというのは、聞いただけなので、私自身が実際に見たわけではないので確たる裏付けはないのであるが。

もしこれが、本当の事だとすると、当然成績が捏造されている危険性が指摘できる。
客観的につけなければならない成績が、あろうことか捏造とはありえない話なのだが・・・。
まぁ、客観的と言ってもどこまで客観的なのか分からないのが成績表なのであるが。
だって、結局は人間がつけるわけであるし、その為にテストするのだといっても、テスト内容をあらかじめ予想させたりした時点で客観性がなくなる気もしてしまう。
なによりも、平常点というものがある。多分、これで大分救われた人もいるだろうが、平常点自体が教師の主観の固まりみたいなものだと思うのだ。
しかし、いずれにせよ大学に進学する際にも、就職する際にも、提出しなければならないものであるから、これが捏造されているとなると、判断する側は一体何を信じればいいのだろう。
ある資格を持っているが、それは裏ルートで得た資格で、実は勉強していませんでした。などと就職した後で云えるだろうか。
例えるなら、お札と同じなのだと思う。
成績表には嘘はない、あるいはつかないという、「暗黙のルール、了解」みないたものが漠然とした認識の中に存在してはいないか。
成績表、通知表の安全神話、そういうものが学歴社会の中にまかり通っているのではないか、と指摘したい。

私などは、5段階評価で5を取ってしまったら、「取ったこと」にそれ相応の責任を感じてしまう。
評価が高かったと喜んでいる場合ではない。(喜ぶ事も必要だけど・・・)
だって、「あんたは出来る」って言われている分けだから、もし何かの機会で講義で学んだことを説明しなければならなくなったときにそれが出来なかったら恥ずかしい。
やはり評価にはそれ相応の責任があると個人的には思う。
成績表は、あくまでも自分自身の他人の判断基準であって、そのほかに自分自身の判断基準も持つべきなのだとも思うが。

いずれにせよ、今回の履修問題の事件は、今後も問題が出てきそうな気がしてならないと言うのが私の感想だ。
そもそも、国が定める学習指導要領と現場の問題がリンクしていなさすぎるというのが事の発端だとも思うけど、それで卒業できない生徒の気持ちももっと考えるべきだ。
なによりも、せっぱ詰まって、「取ったこと」にしてしまうことは以ての外だしあってはならない。
だが、毎回授業が行われる度に、監査が入ってるわけではないから、一つ一つの教育現場の実態をきっちり把握できるわけではない。つまり、「うちの学校ではやっています」「うちの学校では履修したんです」とおおっぴらに言い張ってしまえば勝ちみたいなことにもなりかねない。
報道で、「12月までには履修を終わらせる」と述べた学校もあるようだが、他の授業との折り合いを見て短期間で履修させることが本当にできるのかどうか疑問が残る。どう考えても、土日、祝日は一日中学校に籠もって集中講義みたいな形になることは確実だろう。70コマだと、さらに放課後も一限二限増やさないとやっていけないんじゃなかろうか。
学生にしてみれば、塾との折りあいをつけなければならない人も出てくるだろう。
問題がクローズアップされたことで一番被害を受けてるのは受験闘争真っ直中の学生諸君だと言うことをもっと深刻に考えるべきなんじゃないだろうか。