ニイタカヤマノボレ 太平洋戦争 開戦日

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」


アナウンサー館野守男氏の声が日本全国に響き渡った日である。
多分現在では殆どの人が、日本が破滅への扉を開いたこの日を覚えてはいない。
当時は開戦記念日としてもてはやされたこの日も、今となっては負の遺産と云えよう。


1941年12月、日本近海を立った第一航空艦隊、赤城・加賀・蒼龍・飛龍を基軸とした航空母艦はヒトカップ湾に集結し一路ハワイを目指した。

1941年12月8日早朝、「ニイタカヤマノボレ1208」を確認した同艦隊は赤城、加賀、蒼龍、飛龍から航空機を発艦、午前7時55分真珠湾上空に到達し攻撃を開始した。

日本が、破滅への一途を辿る事になった瞬間である。

否、すでに中国へ侵略を開始した時点で日本の破滅は決定していたのかもしれない。

米国の対日石油輸出禁止、ABCD包囲網などによって日本の経済は逼迫していた。軍の試算では約二年以内には日本の戦争継続能力が切迫する事は分かっていたし、いずれにせよ蒋介石毛沢東が同盟を組んだ時点で日本の中国侵略の敗北は決定していただろう。

当初の日本の戦略、というよりも山本五十六の戦争計画では、開戦当初で真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊を壊滅させ年内にはフィリピンを手中に収め一気に講和条約に向かうはずであったが、実際は米航空艦隊は真珠湾には停泊しておらす山本の計画は初戦から出鼻を挫かれた格好になってしまった。航空母艦を取りに逃がしたならまだしも、真珠湾ないの石油タンクやドックなどに攻撃を加えなかったのは痛恨の極みとしか言いようがない。これを叩いていれば、米軍の反抗作戦は一ヶ月から二ヶ月は延期せざる終えなかっただろう。その後の、米軍の反攻は空母をつかったゲリラ作戦、これはハルゼー提督が主体となっていたが、こういったゲリラ作戦などによって日本は翻弄され最終的にはミッドウェーで敗北する事態となった。
当時の日本は本当に米国と戦わなければならなかったのだろうか。
中国戦線は停滞していたし、日本と米国間の外交交渉は殆ど幸先が見えなかった。なによりも、陸軍内部の強行派などは頑強に対米戦を主張していた。しかし、海軍側は特に、山本五十六米内光政井上成美などが反対を行っていた。
私自身の考えとしては、本当に戦うべき相手は米国などではなくソ連ではなかったのかと思う。中立条約を結んでいたはいえ、ノモンハン事変などで日本陸軍、特に関東軍ソ連極東軍などとのいざこざは絶えなかった。特に1941年12月8日という日は、第二次世界大戦史でも転機と言える日である。この日、ドイツ軍が東部戦線で大敗を決した日でもあるのだ。死闘を繰り広げたスターリングラードは結局ソ連軍の手で死守された。その要因となったのは、ソ連の「日本はソ連に侵攻してこない」という見方だった。それは、日本と米国との国際関係などの悪化などが影響を与えていた。また、この見方によってソ連シベリア鉄道を経由して極東に配備された軍を東部戦線に輸送したのだ。これによって、ただでさえ冬将軍で打撃を受けたドイツ軍に止めを指したのである。もし、日本がソ連に侵攻していればソ連はドイツ、日本の挟み撃ちに合い戦線は瓦解までは行かないだろうが少なくとも硬直には至ったのではないだろうか。ソ連、特にシベリアには石油や金などが算出される。ドイツと呼応して作戦を展開する事は同盟という観点から考えても妥当だと思われる。また、米国に関しても元々は反共の国である。容易に日本に宣戦を布告する事は出来なかっただろう。しかも、これこそがドイツが画策した三国同盟のねらいでもあった。そもそも、三国同盟はあまりにも遠すぎた同盟条約であった。日本とドイツ、イタリアは海と陸によってあまりにも距離が離れすぎている。これでは物資の支援や情報・技術の共有や提供さえ容易ではない。そのためには、ソ連という国を蹂躙する事が一番の近道だっただろう。しかし、現実は日独伊三国軍事同盟によって日本と米国間の関係は冷え切り、ハル・ノートの提出によって日本の戦争方針は決定した。
米国と戦争するにしても、初戦で真珠湾を奇襲するのではなく占領しなくてはならなかっただろう。無論、兵站線が延びきってしまうという重大な問題点を解決しなければならないだろうが、それが出来なくては米国と戦争などできはしなかったのだ。山本五十六は、開戦当初で太平洋艦隊を撃破し米国との講和集結しようと画策したが、本来ならば初戦でハワイを占領し、開戦一ヶ月以内にはカルフォルニアに上陸し同地の油田を押さえなければならなかった。彼自身、渡米中に米国の工業力を目の当たりにしたからこそ、開戦を回避するために最後まで追力したのである。当時の米国はそれほどまで強大だったのである。艦隊に関しても、太平洋と大西洋をカバーする為の両洋艦隊造船計画が進行中だったし、なによりオレンジプラン(レインボー・プランの一つ)は有名すぎるだろう。
いずれにせよ、対米戦は米国本土上陸がなされなければ勝機は見いだせなかった。それも、ロスアラモスで原爆が開発される前までという期限付きである。
日本は、戦略面での勝利より戦闘での勝利にこだわりすぎた。戦闘で勝利したとしても、消耗戦などの長期的な戦略で勝利出来なければ戦争には勝てない、という事に気づけなかったのがその敗因だろう。いずれにしても、日本の補給能力では太平洋をカバーすることは不可能だったのである。